HOME> お問い合わせ> 相談事例>

□ 相談事例


労災関連の相談と対応例

仙台市青葉区S氏の「読売IS労災再審査請求」の援助

読売IS(インフォメーション・サービス)の配送運転手だった労働者が、仕事中の転落事故(労災治療)による3週間の療養休暇中に3泊4日の研修会参加を強要されたことによって傷病を悪化させただけではなく、その後の無配慮な業務とパワハラなどによって身体障害・精神障害を憎悪させたことについての療養給付(労災)請求が認められなかったと、再審査請求段階で初めて相談に訪れました。
認定審査段階で事実が無視されていることや心身の健康状態が極めて不安定な状況を重視し、継続的な相談と再審査での意見陳述、追加資料の提出などを援助してきましたが、4月15日付で却下されました。

仙台市太白区O氏の「長時間労働によるうつ病」への対応援助

総合設備エンジニアリング企業の営業マンが、無定量の長時間労働や上司からのパワハラでうつ病に陥ったことについて「もうこのままではやっていけない。退職したい気持ちだが、労災申請は出来るのか、損害賠償を求めることは出来るのか」という相談を受け、1年間にわたって助言しながら早期の復帰を実現できるように援助してきました。
客観的に考えて、今退職して「闘う」ことが大事か、会社の療養休暇制度を活用して健康を取り戻し、その時点で対応を考える方が良いのか話し合ってきましたが、4月から支援計画を作成してもらい復帰するところまで健康を回復してきました。
労災申請等については、今後も引き続き相談にのりながら、万が一再発するような事態があった場合に検討することにしています。

労災以外の相談内容への対応例

・未払い問題では解雇された労働者が過去2年にさかのぼって、時間外賃金をほぼ満額勝ち取った事例があります。
突然の解雇に納得できないまま相談に訪れ、確認したところ相当の時間外労働を強いられていたにもかかわらず、時間外手当は全くもらっていなかったのです。
会社に残るつもりはないというので、早速時間外手当の請求を行いました。
当初「現場への直行・直帰は通勤時間であって時間外勤務ではない」とか、「賞与で時間外分は支払っていた」と主張していた会社側に、3度の会社交渉を経てほぼ満額を支払わせることで決着(和解)しました。
本人のがんばりを支えた具体的な助言と、会社交渉にも同伴して取り組んだ援助が功を奏した事例です。

・教科書供給会社から、実質的には妊娠を理由に解雇された女性の相談事例です。
所長に妊娠していることを告げたら退職を勧められた。産休を申請したら「上司の悪口を言ったり職場を乱している」という理由で解雇と言われる。
法的措置を取るというと「どうぞ自由に」と。女性の権利を頭から認めようとしない悪質な対応に、組合に入って闘うことを決意。宮城一般労組に加入し、現在交渉中。
「O市での指名解雇事案」などについても、宮城一般労組と連絡を取り、組合加入の上解雇撤回闘争に取り組んだり、病院の不当解雇問題では医労連の力を借り、短期間で解決できた事例もあります。
派遣切り問題や生活保護受給にかかわる問題では、県労連や労働相談センターと連絡を密に対応したり、業者からの相談では宮商連を、生活相談については生健会を紹介して解決できた事例もありますが、内容に応じて連携・対応できる労働組合や団体の存在は、相談事例の解決の上でも大きな力になっています。

 ・直近の事例なのでまだ具体的な解決には至っていませんが、求人広告では「3ヶ月の試用期間後社員に登用、試用期間は時給だが社員は月給制、通勤費・各種保険有」となっていたにもかかわらず、丸2年たった現在も試用期間中の時給のままだし、通勤費を請求したら時給を削って通勤費欄にその分を記載しただけ。 社会保険にも労働保険にも入れてもらえない、という相談事例。
無保険状態、広告違反事項については直ちに労基署に訴え改善指導を求めるよう助言すると共に、改善されない場合は過去にさかのぼって「保険掛け金の支払い」と「月給と時給の差額、時間外手当、休日出勤手当の請求」を行うため、組合に加入して取り組むことを確認。

 ・この他にも、「レジのお金が合わない」とか、「セクハラをした」とか、「仕事への意欲が見えない」など、言いがかりをつけて退職に追い込んだり解雇する悪質なケース、「派遣切り」に便乗するケースなどが増えていますが、このような相談にも県労連や労働相談センターと協力しながら対応してきました。

労災、公務災害認定闘争

AT事案 2008年4月に訴状提出、10月には労働保険審査会に対し再審査請求

HタートルよりS急便に派遣されていた29歳のATさんが、7年近い常夜勤・長時間労働(荷分け作業)の末に、2006年3月27日に過労自殺をした事案です。
異常な勤務実態によって心神喪失状態にまで追い込まれたことについて、タイムレコードと家族の証言を基に、杉山・北見弁護士とともに派遣元と派遣先の会社を訪問し協力を要請するとともに、2006年末の12月15日に宮城労働基準監督署に労災申請を行いましたが、「精神疾患を罹患していた確証はない」ということで、うつ病に罹患していた事実を否定できないにもかかわらず、2008年1月に「業務外」認定の裁決を下しました。
また、2008年2月26日に行った審査請求に対しても、労災保険審査官は十分な審査もしないまま、2008年9月1日に「請求却下」という不当な裁定を下しました。
2008年4月24日、S急便とHタートルを被告とした損害賠償請求の訴状を提出し、6月以後2009年3月までに6度の地裁口頭弁論を行うと共に、2008年10月には労働保険審査会に対し再審査請求を行い、陳述の機会を待っているところです。
いの健宮城センターでは毎回の口頭弁論を傍聴し続けていますが、派遣労働者の人権が無視されている状況下だけに、AT事案を勝利させることはきわめて重要な課題です。

高野啓事案 2008年6月10日地方公務員災害補償基金宮城県審査会に審査請求

2000年4月に転勤するとともに6年生の担任と研究主任等の公務分掌を担わされ、「大変だ、俺にはできない」と言いながら、連日深夜まで机に向かうようになりました。
肉体的・精神的に大きな負担を覚え、うつ病を罹患し、同年6月11日に命を絶ちました。37歳でした。
宮教組I支部を中心に支援団体を作り、2003年10月14日に地方公務員災害補償基金宮城県支部に公務災害としての申請をしましたが、2008年4月14日、4年半もかけたうえで不当な「公務外」裁定を出しました。
裁定理由は「転勤は誰でもする。6年担任は誰でもする。研究主任も一定の年齢になれば誰でもする。だから過重ではない。精神疾患は公務とは無関係」という、極めて事務的で冷淡な内容に終始しています。
2008年6月10日に基金審査会に対し審査請求を出し、2009年2月26日には弁護士や元同僚・関係教員による意見陳述を行いました。
陳述では、教育現場の深刻な労働実態や転勤・6年担任・研究主任が重なったときの過重性を訴えると共に、基金支部の担当医も遺族側が申請した医師も、そろって公務起因性を認めているにもかかわらず、基金本部からの実態を無視した指示によって不当な判断がなされたことを厳しく指弾しました。
陳述にはいの健宮城センター関係の傍聴者を含め22名が参加しました。
公務災害としての認定を勝ち取るまで、今後とも遺族や実現する会とともに取り組みを強める必要があります。

SK事案 2008年10月31日労災申請

写真台紙制作、記念アルバムの企画制作等を行う会社で、主として福島、新潟を含む関東一円の営業活動に従事。エリアの広さと顧客数の多さから1ヶ月に20日間も県外出張があり、直前1ヶ月の112時間を始め、毎月100時間前後の時間外勤務を行っていました。
同僚や上司との連日のメールを見ても、相当疲労が蓄積していたことは明らかです。2007年3月22日、宿泊先ホテルで倒れ、上腸間膜動脈乖離で急死。45歳でした。
過労死は明白ですが、いわゆる「脳心疾患」ではなく、希有な症例でもあり、認定を得る上での困難も予想されます。しかし、業務の過重性や起因性については脳心疾患と同基準で認定するよう求めて取り組むべき事案と考えます。
2008年5月26日に初めて相談を受け、直ちに幹事会において検討し、支援を決定しました。
7月12日の労災問題交流会でも詳細を報告してもらいましたが、10月31日に労災申請を行い、現在審査中の事案です。

HY事案 2008年11月4日労災申請

トラック運転手の過労自殺事案(2008年9月9日自死)ですが、長距離運転だけではなく、搬送先での製品の組み立て・解体などによる休み無しの長時間労働(2日しか休めなかった月もある)による疲労の蓄積と、理不尽な賃金引き下げへの怒りなど、肉体的・精神的な疲労や不安が重なり抑うつ状態が激しくなっていました。
最後は妻の側にいないと不安に襲われ、トラック運転中にも休憩の度にケータイで電話する(1日平均10回)深刻な状態でした。
富山を往復し、休む間もなく青森に出かけたこともあるほどの強行日程が続いていましたが、会社側は「あの日は富山なんか行ってない。家に帰りたくなくてどこかで寝てたんじゃないか」とか、「家庭に問題があったから死んだんじゃないの」など、遺族の思いを逆なでするような発言をしているとのことです。
妻が2008年11月4日に一人で労災申請をしたものの、労基署との対応や今後の取り組み方で悩んでいた時に「いの健宮城センター」の存在を知り相談にきた事案です。
幹事会でいの健宮城センターとしての支援を決めると共に、杉山弁護士を紹介し、今後の対応を検討中です。

T市職員の過労死事案(2004年12月7日突然死)

国交省の出先機関への2年間の出向から帰任した2004年4月から防災部に配属。その後、地域防災マニュアルの作成をすべて任されるとともに、市内消防団や婦人防火クラブの諸行事に関わる。
職務上24時間の緊急招集に対応する精神的な緊張感、訓練やイベントによる休日出勤をしても代休を取れないことによる疲労の蓄積、12月議会までのマニュアル作成責任など、心身の過重が重なり7月頃からはメンタルクリニックにも通い「神経衰弱」の診断を受ける。
平均の時間外勤務は60~70時間ぐらいだったが、仕事の質と精神的負担、不規則性などにより疲労困憊の状態になっていたにもかかわらず、死の1週間前には婦人防火クラブの1泊研修旅行に同伴し、議会開会日が12月8日のため、死の前日には体調不良を押して出勤しマニュアルの仕上げに取り組み、翌朝突然死に至ったものです。
この事案は2005年2月に相談にのり公務災害申請の動きになったのですが、遺族の事情によりそのままになっていました。
2008年秋に改めて相談があり、錦町診療所の事務長と共に公務災害認定を求める申請準備を始めているところです。

T市中学校教員の過労自殺事案(2008年2月7日自死)

教育研修センターでの長期研修を受講するなど、効果的な指導方法を積極的に研究していた英語の教員ですが、自分の指導法や指導理念が効果を発揮できず、指導上の悩みを抱えていました。
生徒の「荒れた状態」も一方にあり、反発する生徒や他クラスから授業妨害に乱入する生徒への対応にも悩んでいました。
亡くなった日も他クラスの生徒が授業妨害に乱入したことで糸が切れ、自ら校舎から身を投げて死を選んだものです。
1月31日から「俺は生きたい!」と訴えながら3度にわたって遺書を書いており、苦しみ苦しみ苦しみ抜いたあげく、自ら命を絶ったことが分かります。
それだけに、1学期から授業ボイコットが起きたり、「死ね!」という落書きやこの教員の給食に薬物(?)混入事件なども起きているにもかかわらず、学校としての組織的な対応を全く取らず、教員個人の問題にしたまま保護者にも一切相談することもなく手をこまねいた学校側の責任は否定できません。
現在、宮教組及びH支部と一緒に遺族から聞き取りを重ねながら、公務災害認定の申請を準備をしているところです。

それぞれが過重労働による突然死であったり、業務上の理由でうつ病を発症し自ら命を絶ったものと考えられ、いの健宮城センターとしての支援を決定しています。

inserted by FC2 system